前田慶次郎は、甲賀忍者から織田家の武将まで登りつめた、
滝川一益の弟の子供として出生したが、
前田利久の養子に出される。
一族衆として、6000石の石高を与えられていたが、
利久と、反りが合わないため、
1591年頃、禄高も家族も捨て浪人となった。
理由は、利久が、戦いを好まない性格で、
しかも、百姓仕事がむいていたので、
血気盛んな慶次郎にとっては、
ものすごくはがゆい思いをしたと思う。
以後京都に、移り住んで傾奇者として、
一世風靡したと、言われている。
上杉景勝に仕え、関が原の戦いの時は、
西軍方で、
最上軍と死闘をしたことは、
有名な話で、しんがりを務めた直江兼続が、
死を覚悟したほど壮絶な戦いであった。
形勢を一転させたのは、
慶次郎の槍のおかげだと言われています。
名言は、大将は、遠くを見て、
近くを返り見てはいけない、
小さな、敗戦にめげていては、
武功をあげることは、
できないと言った、
言葉を残しています。
身長は、推定130cm~140cm位だと、
言われていますが、
大槍を振り回すには、
少し無理がありますよね。
鳥以外の動物性のタンパク質のあるものを取っていないと、
体力的に、合戦に参加するのは、
無理だと思います。
しかも、68歳と高齢な男が、
槍を武器にして戦えますか?
すごく矛盾を感じのは、
当時、肉を食べる習慣がないのに、
体力があるとは、
とても思えないです。
みなさんは、どう思いますか。
74歳まで、生きたというのも、
どこか不思議です。
2013-11-14 12:19
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